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鎌倉宮

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鎌倉まで
行ったので
初詣もかねて
鎌倉宮に行った。





ここに
祀(まつ)られるは
大塔宮護良親王
(おおとうのみや
もりよししんのう)




この鎌倉宮に
幽閉されており
宮様はこの場で
殺された。。


幽閉されていた
土牢は
天皇の皇子が
入るには
ぁまりに
粗末なもの。




ただ
土牢から
見上げた昊(そら)は
何処ょりも
綺麗だった・.+゜・









『太平記』によると
武芸を好み日頃から
自ら鍛練を積む
極めて例が無い
座主であったという。


そして
雛鶴姫をただただ
愛し抜いて
散って逝った人・.+












元弘の乱
(げんこうのらん)
楠木正成らと共に
戦ったのが
護良親王だ。




元弘の乱は
1331年(元弘元年)
護良親王の父である
後醍醐天皇を
中心とした
勢力による
鎌倉幕府討幕運動。


1333年
(元弘3年/正慶2年)
鎌倉幕府が
滅亡に至るまでの
一連の戦乱を
あらわす。


戦いに勝った後
征夷大将軍になるが
後醍醐天皇の
寵姫である
阿野廉子との問題で
1334年の冬に
鎌倉へ送られる。


鎌倉将軍府にあった
足利尊氏の弟
足利直義の
監視下に置かれ
幽閉される。


そして
1335年(建武2年)
7月23日
9ヶ月の幽閉の後
殺された。





そして
護良親王に
かかせないのが
妻である雛鶴姫。


護良親王と雛鶴姫は
それは仲睦まじく…
戦の前に還俗して
結婚した説もある。



護良親王も
帝の皇子であるから
何もしなぃで
いいのに
戦の最前線で
戦ってしまう
例にない
皇子だったが
この雛鶴姫もまた
愛する護良親王の
ためなら
何をも厭(いと)わない
例にない姫だった。



1335年(建武2年)
雛鶴姫は従者と共に
護良親王の御首を拾い
急いで鎌倉を逃れた。


疲れと空腹と
戦いながら
苦しい旅を
続けたのだ。


そのとき雛鶴姫は
護良親王の
子を宿していた。



秋山村に
たどり着いた時
雛鶴が
産気づいてしまった。
無生野には
人家がほとんどなく
また後難を恐れて
村人は誰一人とて
宿を貸さない。


やむなく
木の葉を集め
しとねを作り
産所として
雛鶴は皇子を
産んだ。



産後から
いくつもの
説がある。。



雛鶴姫は
産後すぐ他界し
綴連王(つづれの)も
間もなく
儚(はかなぃ)い
命を絶った。


綴連王は
しばらく生存したが
幼児のうちに他界し
雛鶴姫もそのあと
間もなく他界した。


雛鶴姫姫は
産後間もなく
他界したが
綴連王は
12~13歳まで
生存してから
他界した。



どちらにしろ
この「雛鶴峠」は
雛鶴姫が愛する
護良親王の
御首を抱き
涙ながらに
越えた峠と
されている。







人が亡くなった
場所なのに
禍々(まがまが)しさを
ぁまり受けずに
すむのは
護良親王の
お人柄ゆえだろぅか…





おみくじを引いた。




『そこに
しあわせの運が
やってきた
受入れを急げ
こころすなおに』



まるで宮様に
言われてる
気がした・.+゜・








護良親王と雛鶴姫
いついつの世も
あのぉ昊(そら)で
どぅかどぅか
仲睦まじく…
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  1. 2010/01/06(水) 05:03:52|
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